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週刊「ナビィ、の部屋」第21号

『La La La Song』こと「我ったーネット」を熱唱中
『La La La Song』こと「我ったーネット」を熱唱中
 5月の終わり、私のお願いのひとつが叶いました。

 ラミとケレンが沖縄に来たのだ。

 うわーーーーーすげーぞーーー

 「何で?』と聞かれて、考えれば色んな理由があるけれど、本当の所は解らない。

 でも私は彼らを沖縄に連れて行きたかったし、沖縄を知って、うちなーんちゅに出会って欲しかった。

 そして沖縄にも、うちなーんちゅにも、彼らを知って欲しかった。

 「いつかそんな日が来るといいなぁー」って思ってた。

 その願いは叶って、彼はやって来た。

 そして、私が思う以上のいい出会いをして帰って行ったよ。

 今回改めて「うちなーんちゅ、最高!!」って思った。

 那覇の自衛隊駐屯地内の土地が返還された夫婦が、その土地を花園にする、っていって沢山の植物を植えてるの。

 『ちゅらさ(清らか、美しいの意)ガーデン』って言う名前。

 そこに黒木(三線の棹になる木)の苗を2本。それぞれ『シャロームの木』『サラームの木』って名付けてラミ、ケレンに植樹してもらったの。

 それを三線を造れるくらい大きく育てて、三線を造って、それをイスラエル、パレスチナに送ろう、って

 でも、棹が出来る様な木になるまでに、30年くらい。

 棹にしたら10年くらい木を寝かせて、まともな三線造る、となったら40年はかかるわけ。

 それは、彼らとの出会いを、この瞬間だけにとどめないで、この先、それこそ40年、50年先までつなげよう、って思ってるって事なんだな、って思うの。

泉崎の台湾料理店にて。2002年も「にーにー」は『ぷー』 どうぞヨロシク
泉崎の台湾料理店にて。2002年も「にーにー」は『ぷー』 どうぞヨロシク
シャロームの木,サラームの木。まだ細い
シャロームの木,サラームの木。まだ細い
 私が「彼らを沖縄に連れて行きたいから協力して!!」ってお願いしたのは、なんと彼らが来る10日くらい前。

 それから資料送ったり、協力してくれる人を募ったり、、、色んな事があって正式に彼らを沖縄へ、ってなったのは、沖縄講演会の一週間前だった。

 この三線プロジェクトを考え付いた朝男さんは、「おととい思い付いた」って言ってた。

 きっと常日頃から、こんな風に「人をもてなす事」や「出会う事の喜びを形にして残す事」を考えてるに違いない。

 那覇での講演会の日の事。講演終了後、誰もそんな事お願いしてないのに、ラミ、ケレンへのお土産を持って来てる人がいっぱいいて、

 その中に「土地闘争」をやってるおじぃがいて、自分達が使ってたゼッケンとハチマキを持って来てた。

 そのゼッケンとハチマキに書いてある文字の意味を聞かされた時のラミ、ケレンの顔は、なんとも言えない笑顔だった。

 おじぃは「土地は命やさ」って言ってた。

 私はなんかもーーーー涙が込み上げて来た。

『痛みを知った人達は、何処までもやさしくて』

『光り』の歌詞を思い出す事が何度もあったよ。

 ラミは「沖縄はぼくの第二のふるさとだ」って言ってた。

 うちなーんちゅでもないのに私は、彼がそう言ってくれる事を本当に誇らしく思った。

 6月になって那覇に帰った時、朝男さん達と『ちゅらさガーデン』に夕方の水やりに行った。

 二つの黒木は新しい葉が出てた。

 40年後、世界はどうなってるんだろう???

 おばぁになった私は、彼らに三線を渡しにゆけるだろうか???

 生きて幸せに暮らす彼らの元に『ちゅらさ三線』を届けにゆきたい。

 それが私の新しい夢。

 んじゃーまたね〜〜〜〜


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