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週刊「ナビィ、の部屋」第49号

ハワイイ その2



お茶目な神父 ジジ氏。手に持ってるのが『ラウラウ』
村田さんと別れて、その日はホテルを出て船へ移動。
 ホテルの従業員もびっくり!!のショートステイ
 昼12時にチェックインして、その日の夜10時にアウトだもん、、、そら驚くわ、、、
 フロントのにーさん「ハワイイで何しますか?」
 よほど怪しまれたらしい、、、、とほほ

 翌日は船発の時間が早朝激っ早なので、とにかくその日のうちに船に移動しよう、という事になり、怪しまれつつもホテルを後にした。
 翌朝はスクールバスに乗って、オアフ島、ワイアナエ山脈のふもとの村『マカハ』へ向かった。
 そこでは、ジジ・コキーオというイタリアから来た神父さんを中心に、様々な事情で両親に育ててもらえない子供たちに学問、農業、そしてハワイイ先住民の文化を教える学校があり、そこで半日を過ごし、その後、『エリック・カアラ学習センター』というハワイイの伝統に基づいたやり方でタロイモを植えたり、伝統を伝えるためのワークショップを行う学校へ行った。

トンガから来てる南島美人。素敵です
 うちは飛行機で眠れなかった上にホノルルでもあまり休めず、しかも、雨がふって寒かった事もあって、この日はかなり体調が悪かった。
 しかも出発ギリギリまで眠っていたので、朝ごはんも食べれず、最初の『マカハ』の学校に着いた時はかなりダウナーで、意識も〜ろ〜な感じだったので、実はあまり重要な話しを覚えていないんです。

 でも、うちの大好物のココナツの身をもらった時は、地元のおねーさんに「食べ過ぎじゃない?」と心配されるほど、たらふく食べてかなり回復した。

 『マカハ』で、地熱を利用した『ラウラウ(包む)』という料理を頂いた。
 それはタロイモの葉でとり肉や芋を包んで、そのまま袋に入れて地中にいれるという今まで生きて来て初めて出会った、びっくり調理法の逸品だった。
 「ここ何日か雨続きだからうまく出来てないかも??」と言って地中から取り出したるその中身は、、、、、、
 火を使っていないとは思えないほどの、ほくほくの温かいジューシーなチキンだった。
 ありゃ〜〜美味しかったねぇ、、、


ゴーカなハワイイアンランチ。いっぺーまーさいびんどー
 その後、ココナツの葉を使って、目にも止まらぬ早さで編み上げるおじさんや、トンガから来て手伝ってる素敵な南国美人のお姉さんのお話や、神父さんの案内で農場を見学したりした。

 コキーオ神父はユーモアの人で、農場や栽培方法の話しをする時も必ずジョークを飛ばしていたけど、ハワイイに来る前はフィリピンの先住民の村にいてやっぱりスペイン、アメリカの支配や腐食政治の中でアイデンティティーを傷つけられ、自らを尊い存在だと思えなくなくなった人達を支援していたらしい。
 マルコス政権で彼らの様な立場の人は国外追放になり、その後ハワイイへやって来てこの様な学校を作った信念の人だ。

ミスハワイイはお前さんじゃ!!本物はもっと可愛い
 でも、「僕って偉いでしょ〜?」みたいな所もなく、訪れた人達をリラックスさせてくれる優しい人だった。
 お話を聞いて農場を一通り見た後は、体育館でランチと子供達の芸能大会と交流タイム〜
 お昼頃になってやっと太陽の光りが強くなって来た。
 何の木だか解らなかったけど、木々の向こうに体育館があって、そこに向かって歩いてる時、何故か西表島でライブした大原の公民館を思い出した。
 大きなワイアナエ山脈から雲が沸き上がって雲になってゆく。
 なんだかとても懐かしい光景だった。


『カアラの谷』への入り口
このツアーにタヒチから乗船した、タヒチ先住民の『ガビ』も参加していた。
 前回のクルーズでタヒチに行った時、お世話になった人だ。
 ガビに「タヒチみたいね」と言ったら、「ホノルルは人がいっぱいで頭が変になりそうだったけど、ここはいい〜タヒチみたいで落ち着く〜」と言っていた。
 西表島、タヒチ、そしてここ。
 山は雨を受け止め、水蒸気が雲となり、また恵みの雨を降らせる。
 山の水は川となって、海につながる。
 自然の循環、めぐみを感じる光景。

 名もしらない木々がでいごに見えた。
 体育館ではうち達のために大人のスタッフが総出でご飯をこしらえてくれてた。
 『ラウラウ』『ロミロミ(もみもみ)サーモン』名前忘れたけど、チキンを焼いて割いたものとアップルケーキ、
 そして農場でとれたレモングラスのお茶。
 ゴージャスランチ!!
 の後は子供達のフラダンス


神様のお許しが出たので、皆山に向かって歩いてる
 フラダンスは元々はとても神聖なもので、踊る場所に生えている葉や草を編んで身に付け、リズム楽器と歌だけで踊られる神への捧げるもの。
 長い侵略の歴史の中で弾圧されながらも細々と踊られて来た『フラカヒコ』というのがそれにあたるらしいんだけど、そこでうち達が見た子供のフラは、もう少しポップというか、娯楽性の高いものの様に思えた。
 でも、とにかく可愛くて、可愛くて、も〜〜〜〜〜そら、おばさんの様に写真とりまくったよ!!
 (のわりには失敗だらけだった、、、だって動きが激しいんだもん、、、しょんぼり)

 その後、交流会でフラを皆で習ってみたが、手の表情の美しさには圧倒されてしまったし、とてもじゃーないけど、真似できない、と思った。
 美味しく、楽しく過ごして、カアラの谷にある『エリック・カアラ学習センター』に移動。
 又しても陽が陰って来て寒くなって来たら、なびちゃん、またダウナ−になって来た。
 よって、ここでの話しも重要な点はあまり覚えておりません。

 ここを作ったエリックは、先住民のアイデンティティーを根こそぎ奪ってゆくアメリカの政策、支配の中で傷付き、ドラックに溺れ自分を見失ってゆくも、ある日自分は先住民として生きよう、と覚悟を決め、そして多くの子供達にハワイイ先住民としての誇りを持って生きれる様に、と思い、このセンターを設立した。

 なぁぁんかどっかで聞いた様な話しだよ。
 ネイティブアメリカン、トムも同じ様な生い立ちだったよなー
 アメリカって平等でも自由でもないよね。
 少なくともうちが会った二人の先住民は、差別の中で傷付いて育ってるんだもんね。
 このセンターがある山の中に入るために、神様にお許しを乞う歌『E Homai(エーホーマイ)』を教えてもらって皆で歌った。
 祝詞の様な不思議なうただった。

 記憶が曖昧なわりには、そのセンターを囲む自然や、水の中で育ってるタロイモの葉の美しさや、エリックほかのスタッフの内面からにじみ出る美しさは鮮明に覚えてる。


センターの中。花も緑も美しく生命力に溢れてる
 彼らの言葉で『もしも100年後を想うなら子供に教育を』というのがあって、そこで言う彼らの教育っていうのは、もちろん先住民の伝統的な教えなんだけど、大地や自然を母の様に思い、そこで出来る食物を兄妹の様に思い、人間はひとりで生きてるわけではない事、感謝するべき人々、モノがある事を教えると言う事だと思う。
 今ここに通う子供が、彼らのメッセージを聞き大人になり、子供を同じメッセージを持って育み、そのまた子供が、、、、とくり返されて行けば、100年後の世界はおのずと変わっているはず。
 ネイティブアメリカンのトムは「七代後の事を想え」って言ってた。
 この地球はうち達だけのものではないんだよね。
 次の、会う事のない世代のものでもある事を忘れちゃいけないよね。
 汚れて、戦争だらけの世の中を残すのか?
 それとも、もっと美しい世界を残すのか?
 うちはもっと元気がある時にここに来たかったし、できれば一週間くらいいたいな〜と思った。
 皆はタロの水田の水草を抜いたりしてお手伝いをしていたけど、うちは寒くてがたがた震えながら、山や晴れたり曇ったりする空の表情や、遠くに見える海を見ていた


タロの水田の草を取っている、まん中のシニガミ博士みたいな髪型の人が『ガビ』タヒチからやって来た。頼まれる前から田んぼに入ってた、、、
 今回はじめてハワイイへ行き、とても普通の観光ではあり得ない出会いをして来た。

 ハワイイは全然楽園じゃーなかった。
 アメリカの支配の中で、先住民は屈辱を受け、王朝は倒され、アイデンティティーを奪われ、苦しみの中で生きざるを得なかった歴史を知った。
 彼らの話しで『パールハーバーでの開戦は、日本とアメリカという他国家の戦争が私達の土地で勝手に行われたもの、と認識している」というのがあった。
 まるで沖縄だ、と思った。

 ハワイイはオアフ島の25%が米軍基地に使用されている。
 沖縄本島の24%が米軍基地というのとそっくりだ。

 美しい島というのは、どうしてこう侵略の対象になってしまうのだろうか?
 タヒチもフランスに支配され、タヒチ人らしい生活スタイルを奪われていた。
 ハワイイ、沖縄ほどの比重ではないけど、フランス軍が駐留していた。
 海洋での水爆実験も行われている。


男性がエリック 隣の女性の名前は忘れてしまったけど、彼女はどうもシャーマンの様だった。そばにいるだけでここち良くさせる人だった
 はじめてこの島を訪れた人達は、美しい島を見て、どう感じたのだろうか?
 支配したいと、手に入れたいと、そう思ったのだろうか?
 もし美しいと感じたのならば、何故感じたそのままにしなかったのだろう?

 夕方6時過ぎ、船はワイキキベイを後にして、日本に向かって出港した。
 だんだん小さくなってゆくオアフ島に、これまた小さく星条旗が揺れてるのが見えた。
 とても不似合いだ、そう思った。



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