kotobuki2010
kotobuki2010
寿[kotobuki]の歩んだ歴史と魂のメッセージが詰まった25周年記念アルバム。
2010年
K-NN0004
¥2,500(税込)
1985年から活動を始めた寿[kotobuki]の歴史で最もエレクトリック・バンド編成を中心に、精力的に作品を生み出してた時期1988~95年の間で厳選した未発表&best songを新録音+過去のライブ音源でまとめた、全編エレクトリック・ロック・バンド・サウンド炸裂の70分。
当時のサウンドを知る人には待望の!知らない人は新鮮&驚きの!大満足な作品です。
1.てぃんさぐぬ花
2.金網の向こう側
3.奇跡の詩~キセキノウタ~
4.大歓喜
5.がじゅまるの木の下で (LIVE)
6.光(LIVE)
7.ユリの花
8.青空に囲まれた地球の頂点に立って(LIVE at Estonia rock summer・91)
9.月の夜(LIVE)
10.道
11.AOZORA~少年の日に見た青い空~
12.月下美人
ナビィ&ヨシミツ。アルバム[kotobuki2010]を語る
寿[kotobuki] ナビィ | 寿[kotobuki]ナーグシクヨシミツ
1985年にミーツーニーニーが作った寿[kotobuki]は2010年で結成25年を迎えました。
25周年の記念に作ったアルバム『kotobuki 2010』は、寿[kotobuki]の初めての海外ライブ『エストニアロックサマー91’』と1996年の湯島聖堂でのライブの音源、そして、今は演奏しなくなった初期の作品を集めて、2009年にレコーディングし直したものを収録しました。
1995年に沖縄で起こったいわゆる「米兵による少女暴行事件」がきっかけで、東京及び関東でも沖縄同様、在日米軍基地の撤廃や日米地位協定の見直しを求める集会が沢山開かれました。
『がじゅまるの木の下で』『光』の様な「沖縄戦」を歌ったうたを歌っていた寿[kotobuki]に集会で歌ってくれという依頼がバンバンやって来ました。
が、その頃の寿[kotobuki]は一応4人編成の3ピース(ギター・ベース・ドラムの編成の事)のロックバンドでしたので、下手したら拡声器しかありませんみたいなところで演奏し歌う事など出来るはずもなく、、、、、
ニーニーと話合って、「集会云々の前に電気がなくても出来る音楽もやろう」という事になって、現在主流のアコースティックスタイルの寿[kotobuki]が誕生しました。
今の寿[kotobuki]を知っている方、今の寿[kotobuki]が好きな方々は、今回のアルバム『kotobuki 2010』のコンセプト「昔のうたをエレキで録り直しました」は「何で今更エレキ~~い?」と思われる事と思います。
いや~~~~実はうちも最初にニーニーから「エレキでアルバム作りたい!!」と聞いた時には「はぁ」と思いましたよ。
でも、ニーニーの「今やらなかったら、一生あのうた達は日の目を見ない」という言葉に納得し赤面しながら昔の音源を聴きあさり始めたのでした。
赤面と言えば、youtubeにもアップされている「イカ天」に出演した時の寿[kotobuki]。
あの頃のうちの歌い方は当時流行っていたレベッカのNOKKOさんにそっくりで、でも、歌唱力はNOKKOさんほどなくyoutubeを観ると「ぎゃ~もうやめれ~~~」と、耳と目を塞ぎたくなるほど恥ずかしいのですが、実はあの『タリラリの未来』といううたは、当時ライブでやっていたオリジナル曲ではなく、番組を作っていたアミューズに楽曲の著作権を取られてしまうという噂を鵜呑みにしてしまい、番組に出るために付け焼き刃で作ったうただったのですわ。
(付け焼き刃の割には当時の音楽性がギュギュ~~~~~っと詰まったいい曲です。結局、その後のライブではおなじみの曲に君臨しました。有り難う~「イカ天」)
当時は「反原発のうた」というコンセプトで、カスピ海のアザラシが原発から廃棄された汚水で病気になった歌を、カスピ海にアザラシがいるのか?原発があるのか?全く調べもせず、ファンからもらったアザラシのぬいぐるみをブンブンぶん回しながら歌ったり、今回のアルバムにも入っている『金網の向こう側』では星条旗を振り回して踏みつけたりと、無茶苦茶な事をやってました。
でも、本当に大真面目に「この社会、どうにかせんといかんのじゃないか?」と思っていて、その想いを音楽でぶちまけていたわけです。
んが、いかんせん歌唱力が足らんかったね、、、、
想いばっかりでぶっ飛ばしてるもんなぁ~
その「ぶっ飛ばしてる感」が「若気の至り感」満載で恥ずかしいってのはあるんですが、『タリラリの未来』は、こんな日本に明るい未来はあるんかい?と不安、不満、不信を真面目にぶちまけながらもライブの無茶苦茶な感じをテレビでも問題ない様にってコンセプトの元に出来たうたなので、へんてこなうた、へんてこな曲、へんてこなギターって~のを全力100%でやっちまったのも恥ずかしさ倍増の理由かもしれません。
(当時を振り返ってみると、今は本当にポップになったな~と思います。)
そんなわけで、結成当時から長い事、社会に対して感じている違和感の様なものを歌う事は、硬派なうたにもふざけたうたにも共通してあったわけですが、意図されたものかどうかはわかりませんが、今回のアルバムには「沖縄」をテーマとしたうただけが集まりました。
特に『金網の向こう側』『AOZORA』は、その当時は思いもしなかったけれど、沖縄で次々と生まれる新しいロック音楽からアメリカ占領下や72年の祖国復帰の匂いのなくなったこの時代となっては、ある意味、時代の証言とも言えるうたなのではないかと思いますが、やはり『タリラリ~』や『あざらしのうた(タイトルを忘れた!!)』が候補に上がらなかったのは、「普遍性のなさ」なのではないかと思います。
この地球の中の小さな小さな島『沖縄』の小さな家族や出来事を歌いながらも、それは、多分、アフリカの奥地でもアイスランドでも共通の風景がある様に思います。
1曲1曲のその中に狂おしいくらいの沖縄への愛が沢山詰まっていますが、その愛に触れ、自分の中の何かを愛するココロに共鳴します。
『AOZORA』『大歓喜』『月下美人』はレコーディング中も密かに泣けてしまいました。
こんなうた、ニーニー以外の誰にも書けません。
前述の様にお互いに社会への違和感や不信感があったのですが、ライナーノーツに書いた言葉と重複しますが、私の「自分の命にたいする不確かさ」から来る社会や世界への不信を根底とした違和感と違い、ニーニーの感じるそれは『国家VSマイノリティー』という背負ってるものの大きさを感じ、時間を経るごとにその差はどんどん大きくなって行きました。
「沖縄ばっかりのうたは歌えない」
と、当時のうちは良く言っていましたが、ニーニーはニーニーで「オレにはこんなうたしか作れない」と言っていました。
(とっとと「方向性が違うんだね」と解散でもしてそうなもんだのに、なんでかね~)
そして、どんどん、どんどん歌えないうたが増え、喧嘩しながらも2人の納得の行く方向性を模索しながら今に至りました。
うちも那覇と東京との2重生活をしたり、沖縄以外の異文化に触れたり、音楽を通じて様々な出会いを経た事で、あまりにも色んな意味で重かった「沖縄」と「私」の適切な距離が出来、歌えなくなったうた達と新たな出会い直しが出来ました。
「25年」をひとつのうたにする事は出来ないけれど、こんな風に自分達の歩いて来た道を歌えなくなったうたを通して表現出来た事に何よりも時間の重みを感じます。
それは、聴いている人には伝わらない事なのかもしれないし、うちとニーニー以外だれも「25年間の寿[kotobuki]」を知らないわけだから、伝わる事は絶対にないのかもしれない。
「誰にも伝わらないものは商品として販売する価値がないわい!!」と言われてしまえば「そりゃ、すいません~」としか返答の仕様がないのでございますが、今のアコースティックの寿[kotobuki]とは全面的に表出しているものが違っても、「これも私たち寿[kotobuki]の現在なんです」と自信を持って言えるアルバムです。
どうか、皆様、是非ご一聴下さいませ。
宜しくユタシクお願い致します~
寿[kotobuki]ナビィ
アルバムkotobuki2010について語ります、CDのライナーノーツにはここに書いた事を最小限にまとめて掲載しました。
寿[kotobuki]のサウンドスタイルは1995年から徐々にバンド編成からシンプルなアコースティック&沖縄民謡スタイルへとチェンジしていくが、その過程はアルバム「継いでゆくもの」(1998)~「寿魂」(2005)などにて知る所だと思います…。
それ以前の未発表やエレクトリック・バンド・スタイルの曲作品を、いつか記録として残さねばと思いつつ…ライブ活動で日々が経過するばかりの中、当人達の記憶内で消えかけてる曲もある事や、寿[kotobuki]の活動にひとつ区切りがつくのも含め「もぅ今しかない!」と重い腰をあげたタイミングが活動25年となったしだいです。
当時バンドブームまっただ中!
良い意味も揶揄も含め
「寿[kotobuki]は音、表現ともに10年先いってるから一般的には受けないよ~…」
とよく言われたが、たしかに今では沖縄含めた若いバンドなど民謡&ロック&なんでもありのミクスチャーなんて当たり前だが、当時は他にあまり見当たらないバンド寿[kotobuki]は玄人受けのヘンテコ?バンド扱いだった…(笑)
がっ!しかし「エストニア・ロック・サマー91」に参加・演奏して地元の熱狂的反応や数々のヨーロッパ圏の海外メディアに賞賛された時に「なんだ!日本が遅れてるんだっっ!」
と小さく勝ち誇った(笑)事を思い出します(詳細:ヒストリーブック寿魂/参照)
さすがに当時の若さゆえのハチャメチャ感(…意味不明なアホな事をステージで多々やってた…)やサウンドの再現は無理ですが、変わらない寿[kotobuki]、魂のメッセージや想いは凝縮されてる、寿[kotobuki]の歴史が詰まったアルバムだと思います。
…個人的には2枚組アルバムにしたかったほど、まだ収録したい曲があるのですが、それはまた別の機会のお楽しみにしましょう。
寿[kotobuki]ファンにはもちろんですが50年、100年後と出会うべき人達に聞き継がれていってほしいアルバムです。
Kotobuki2010
『てぃんさぐぬ花』
琉球人の倫理観から宇宙観まで表現したシンプルにして壮大な美しい代表的な沖縄民謡です。
寿[kotobuki]の2人がバンドを始めて最初に演奏しはじめた民謡であり、当時ライブでは「金網の向こう側」のイントロ導入で歌ってました。
全ての始まりにふさわしくアルバムオープニングとして収録しました。
『金網の向こう側』
この曲を作ったのは1980年頃、学生だった自分の鬱屈した思いも詰まって、当時はさらに青臭く曲も荒削りでした。
少年の頃 憧れのROCK MUSICを届けてくれるアメリカ文化と、嫌悪する沖縄の軍隊アメリカの現実…アメリカの姿とは何なのか??自分の中のアメリカはどこなのか?
自分の音楽原点は その矛盾や狭間でつくられたのかもしれない…。
1988年・東京にて、自分は水を得た魚の様に寿[kotobuki]でエレキ・ギターを弾きまくってた。
ウッドストックでのJIMI HENDRIX風のギターがシニカルなアレンジでアメリカ国歌を奏でると…ナビィは星条旗をブンブン振り回しシャウトする…
そんな光景が日々ライブハウスで見られた…
何処にも向けられず彷徨ってた2人の青春のエネルギーが音楽で放たれる居場所をついに見つけ始めた時期である…。
まさに初期・寿[kotobuki]の真骨頂な代表曲です。
『奇跡の詩~キセキノウタ~』 1989作品。
大自然や大宇宙の中で人間はちっぽけな存在、その虚無感の中、ただ人はつらなりつながり魂は永遠と生きる…脈々と継がれ、いただいた命の意味を問い続け大切に生きなければいけない…。
寿[kotobuki]の持つスピリチュアルな世界ひろがる大曲だが、シングル発売されカラオケまで?入った作品(笑!誰が歌ったやら?)
曲展開や雰囲気、そしてエレキギターを弾く中でも寿[kotobuki]で1番好きな曲でした。
沖縄の真昼の白く眩しい誰もいない海の砂浜や、風音が吹き抜け揺れる さとうきび畑の中に1人でいると黄泉の国に来た様な不思議な感覚になる事がある…。
人間は戦争で何もかも失なっても、また出会い、愛し、家族を育み、焼け野原から街を復興させ、力強く生き…また延々と道は続く…。
自分達が日々、あたりまえに生き暮らし、出会う全ての事が奇跡なのかもしれない。
『大歓喜』
1995~96の作品。
ずっと多くの寿[kotobuki]ファンからCDレコーディング化を望まれ続けた曲、感謝を込めて収録。
1995戦後50年、沖縄戦の終結、捕虜収容所の解放や、この時期から寿[kotobuki]が深くかかわり始めたアジア各国の従軍慰安婦の方達の証言…
50年にして苦しくても、ようやく伝えはじめる事が出来た それぞれの体験や想いが重なり、今も世界中で虐げられてる命への未来のメッセージとして歌われてます
「自由や尊厳を奪われてもよい命など絶対に無いのだ!この地球上に!」と。
『がじゅまるの木の下で』『光』
当時コンサートのクライマックスでは必ず演奏、そして大合唱&爆発!!の人気の2曲でした。
今でも寿[kotobuki]と言えば「がじゅまるの木の下で」と言うファンが多い。なんらかの形でも、スタジオ録音ヴァージョンはいつか残したいものです。
小さい頃から、よく聞いた母方親族の沖縄戦の体験を元に曲を書くつもりで準備をしていました…。
1991寿[kotobuki]は「ソビエト連邦崩壊!バルト三国独立」のニュースを見て、奪われたエストニアを取り戻すため誇りを持ち生きてる民衆や出会った人達を想い、共に勝利した気持ちになり歓喜した…。
すぐに神の啓示の様に2曲が出来あがりました。
「奪われ続けても魂までは渡さない!虐げられ翻弄された国や人達こそ痛みを知り、強い愛で未来を作り、光を放つのだ!」
大国に翻弄され続けてる琉球民族と重なり合うエストニアの歴史に何度も胸が熱くなった…
かけがえのないエストニアでの体験と、民衆に勇気をもらい後押しされる様に出来た寿[kotobuki]入魂の2曲です。
「がじゅまるの木の下で」は沖縄、横浜寿町、外国でのライブなどなど、寿[kotobuki]の行く先々の歌う場所に溶け込み、新しく違う姿に変わってく、まさにガジュマルの木のような不思議な力を持つ曲だなぁと感じた事がありました。
…寿[kotobuki]の他の曲も全てですが、若い世代やたくさんの人に歌い継いでいってほしいな~と思います。
『ユリの花』
今回 残念ながら収録外れた「南風」の続編の曲です、レコーディング中に妄想の中で「世界のウチナンチュー大会」テーマソングで流れてる事に勝手に決めてました(笑)!!
…歌詞中のさとうきび畑の中の家も消え、ユリの咲く山(丘)も住宅が立ち並び、もうありません…。
変わりゆく故郷の姿…しかし胸の中に刻み込まれた懐かしい人達や風景を思い出せえば、生きていて何があろうと、どんな場所にいようと、今の瞬間を力強く生きていけます…。
人は記憶の中に生きてる…、後悔する過去があっても今の自分が愛に満ちて生きれば、愛おしい思い出に変わっていくはずです。 皆さんも思い出の花を摘みに行ってみてください、あなたの魂のふるさとへ…。
『青空に囲まれた地球の頂点に立って』
1989年の寿[kotobuki]代表曲。
他の音源もありました、しかし録音状態は良いとは言えないですが、それからの寿[kotobuki]の音楽活動や生きる価値観まで影響を与えた独立運動フェス「エストニアロックサマー91」の記録、あえて そのライブ音源を使いしました。
この曲を作った1989年、当初は仮タイトルで「青空と地球…(云々?)頂点の島で…(云々?)」てな…まだぼんやりな感じでしたが、引き寄せられる様に大好きな沖縄詩人「山之口貘」の詩集に、まるで同じ世界を見た様にシンクロするタイトルを見つけ、畏敬と敬愛を込めて詩のタイトルをそのまま曲名にいただきました、…青空に囲まれた地球の頂点に立って…。
…自分の祖父は糸満海人(ウミンチュ)で、父はその血を継ぎ南洋パラオ諸島で生まれました、太陽光にきらめく海で現地の肌の黒い子供達と半裸で遊んだ話をよく聞きました…。
父は南島で半裸ではなく大阪でスーツのサラリーマンとして1989年に亡くなりました…
そんな父親の死により自分は人生観や死生観、歌に込めるメッセージまで変わりました。
身勝手ながら今では自分のためのタイミングで亡くなり、なにかを教えてくれたのかとさえ思ってます…、人間の生き死にかかわりは全て必然なのだろう…。
出会いと別れを…
宇宙よありがとう。
『月の夜』
アルバム「継いでゆくもの」でアコースティック・ヴァージョンとして収録してますが、こちらのレゲエ・ヴァージョンがオリジナルになります、ブラス・ホーン・セクションなどを入れてスタジオ録音の夢がありましたが…今回は1996年のライブ音源での収録でお楽しみください。
この星のどこかで戦場になった夜も、穏やかな時代の夜も、ずっと、ずっと太古から月はやさしく光を照らす…。
誰かが死んだ夜も 命が生まれた夜も…泣き笑いの人間の営みの日々を月は変わらず静かに見つめていてくれる、いままでも、これからも…。
寿[kotobuki]の宇宙観を示す荘厳で珠玉の大曲。
『道』
1989年、時はバンドブーム絶頂!ライブではかかせなかった曲。
芥川賞小説「オキナワの少年」(東峰夫)と当時のニューエイジ・ムーブメントに触発されて?書かれた、寿[kotobuki]には珍しい抽象的な詩世界とR&Rの3コード的なノリが今となったら希少な、ストレートな寿[kotobuki]流ロケンロー!です。
『AOZORA~少年の日に見た青い空~』
「金網の向こう側」と共に初期・寿[kotobuki]の代表曲。
1988年ライブ演奏時はサイケデリックで複雑かつプログレ的な大作アレンジでしたが(10分以上はあったかも(笑)…20年後の今回の収録アレンジは超シンプルな??(笑)ストレートな良い作品になりました。
収録曲を決める前は さすがに、この曲は無理かな~と悩んでましたが、我先にナビィはハマって歌ってました(笑)
…この曲は「沖縄と言えば明るく楽しい曲サ~(笑)」的な人種?には表現できない(理解したくない?)南島の光にある影の部分、痛みとやさしさ、そして愛…そんな世界や、まとわりつく様なドロッとした空気や島のイメージを表現した秀作と思います(自画自賛~(笑)
……
南の島の日差しは痛いほど強烈で眩しい、それに比べ昼間の家内はやたらと薄暗いと感じてた…。 強い太陽光に目がやられてたからだろう…。
地上戦に巻き込まれ軍民共に戦い、4人に1人が死んだと言われる沖縄の人達は、戦争で亡くなった身内縁者が必ずいる。 友人や他人の家を訪れると、どこでも仏壇に遺影がズラリと並ぶ、老人や軍服の若者、子供、赤ん坊まで さまざまだ。
子供の頃は戦争で精神に異常をきたした人や体に障害を背負った人、心に傷を負い静かに暮らす人達が(そんな人達を集めた場所も) まだ たくさんいた、時を経て異常をきたす人が今もいる…。 (戦後すぐ日本に切り捨てられたアメリカ統治の沖縄にそんな人達をケアする…しなければならないはずの手段すら及ばず…)
「青い海と空の下、のんびり暮らす人達」…観光で沖縄に来たら そんな印象で思い出を残すだろうか? 少年の僕の中のオキナワは「AOZORA」の曲世界に全て表現されている…。 東京でナビィに出会って聞き、それまで自分の持ってた広島のイメージも近いものを感じた…。終わらない戦争が続いてる人達は たくさんいるのだ…。
そんな人達が癒される事、そんな日は来るのだろうか? 少年の僕は 青い空と共に心に刻み込んだ……「愛を全てに」と。
『月下美人』
「サボテン類/夏の夜、純白大輪の美しく香りのよい花を咲かし、4時間ほどでしぼむ」沖縄では月下美人を育ててる家が多い、亜熱帯に似合う花である。
この地球に生まれ、戦争や差別や貧困と…現実があり世界は今日も悲しみに溢れてる…。 しかし この瞬間も地球の上には言葉も宗教も肌の色も違っても、自分達と同じ様に家族を愛し、泣き、笑い暮らす人々のあたりまえの日常がある 。
寿[kotobuki]は世界中の色んな国の人達と出会い歌った…。
誰もが本当にやさしい人達だった。
そう、人類とは そう変わりはないのだ…
愛されてる子供達には輝く笑顔があった。
そこには未来の希望があるのだ。
…今日もこれからも、地球の上の何処かで笑い!歌い!寿[kotobuki]の歌の旅は続いているであろう。
寿[kotobuki]
ナーグシクヨシミツ
寿[kotobuki]の歩んだ歴史と魂のメッセージが詰まった25周年記念アルバム。
2010年
K-NN0004
¥2,500(税込)
1985年から活動を始めた寿[kotobuki]の歴史で最もエレクトリック・バンド編成を中心に、精力的に作品を生み出してた時期1988~95年の間で厳選した未発表&best songを新録音+過去のライブ音源でまとめた、全編エレクトリック・ロック・バンド・サウンド炸裂の70分。
当時のサウンドを知る人には待望の!知らない人は新鮮&驚きの!大満足な作品です。
1.てぃんさぐぬ花
2.金網の向こう側
3.奇跡の詩~キセキノウタ~
4.大歓喜
5.がじゅまるの木の下で (LIVE)
6.光(LIVE)
7.ユリの花
8.青空に囲まれた地球の頂点に立って(LIVE at Estonia rock summer・91)
9.月の夜(LIVE)
10.道
11.AOZORA~少年の日に見た青い空~
12.月下美人
ナビィ&ヨシミツ。アルバム[kotobuki2010]を語る
寿[kotobuki]結成25周年記念アルバム『kotobuki 2010』によせて
寿[kotobuki] ナビィ1985年にミーツーニーニーが作った寿[kotobuki]は2010年で結成25年を迎えました。
25周年の記念に作ったアルバム『kotobuki 2010』は、寿[kotobuki]の初めての海外ライブ『エストニアロックサマー91’』と1996年の湯島聖堂でのライブの音源、そして、今は演奏しなくなった初期の作品を集めて、2009年にレコーディングし直したものを収録しました。
1995年に沖縄で起こったいわゆる「米兵による少女暴行事件」がきっかけで、東京及び関東でも沖縄同様、在日米軍基地の撤廃や日米地位協定の見直しを求める集会が沢山開かれました。
『がじゅまるの木の下で』『光』の様な「沖縄戦」を歌ったうたを歌っていた寿[kotobuki]に集会で歌ってくれという依頼がバンバンやって来ました。
が、その頃の寿[kotobuki]は一応4人編成の3ピース(ギター・ベース・ドラムの編成の事)のロックバンドでしたので、下手したら拡声器しかありませんみたいなところで演奏し歌う事など出来るはずもなく、、、、、
ニーニーと話合って、「集会云々の前に電気がなくても出来る音楽もやろう」という事になって、現在主流のアコースティックスタイルの寿[kotobuki]が誕生しました。
今の寿[kotobuki]を知っている方、今の寿[kotobuki]が好きな方々は、今回のアルバム『kotobuki 2010』のコンセプト「昔のうたをエレキで録り直しました」は「何で今更エレキ~~い?」と思われる事と思います。
いや~~~~実はうちも最初にニーニーから「エレキでアルバム作りたい!!」と聞いた時には「はぁ」と思いましたよ。
でも、ニーニーの「今やらなかったら、一生あのうた達は日の目を見ない」という言葉に納得し赤面しながら昔の音源を聴きあさり始めたのでした。
赤面と言えば、youtubeにもアップされている「イカ天」に出演した時の寿[kotobuki]。
あの頃のうちの歌い方は当時流行っていたレベッカのNOKKOさんにそっくりで、でも、歌唱力はNOKKOさんほどなくyoutubeを観ると「ぎゃ~もうやめれ~~~」と、耳と目を塞ぎたくなるほど恥ずかしいのですが、実はあの『タリラリの未来』といううたは、当時ライブでやっていたオリジナル曲ではなく、番組を作っていたアミューズに楽曲の著作権を取られてしまうという噂を鵜呑みにしてしまい、番組に出るために付け焼き刃で作ったうただったのですわ。
(付け焼き刃の割には当時の音楽性がギュギュ~~~~~っと詰まったいい曲です。結局、その後のライブではおなじみの曲に君臨しました。有り難う~「イカ天」)
当時は「反原発のうた」というコンセプトで、カスピ海のアザラシが原発から廃棄された汚水で病気になった歌を、カスピ海にアザラシがいるのか?原発があるのか?全く調べもせず、ファンからもらったアザラシのぬいぐるみをブンブンぶん回しながら歌ったり、今回のアルバムにも入っている『金網の向こう側』では星条旗を振り回して踏みつけたりと、無茶苦茶な事をやってました。
でも、本当に大真面目に「この社会、どうにかせんといかんのじゃないか?」と思っていて、その想いを音楽でぶちまけていたわけです。
んが、いかんせん歌唱力が足らんかったね、、、、
想いばっかりでぶっ飛ばしてるもんなぁ~
その「ぶっ飛ばしてる感」が「若気の至り感」満載で恥ずかしいってのはあるんですが、『タリラリの未来』は、こんな日本に明るい未来はあるんかい?と不安、不満、不信を真面目にぶちまけながらもライブの無茶苦茶な感じをテレビでも問題ない様にってコンセプトの元に出来たうたなので、へんてこなうた、へんてこな曲、へんてこなギターって~のを全力100%でやっちまったのも恥ずかしさ倍増の理由かもしれません。
(当時を振り返ってみると、今は本当にポップになったな~と思います。)
そんなわけで、結成当時から長い事、社会に対して感じている違和感の様なものを歌う事は、硬派なうたにもふざけたうたにも共通してあったわけですが、意図されたものかどうかはわかりませんが、今回のアルバムには「沖縄」をテーマとしたうただけが集まりました。
特に『金網の向こう側』『AOZORA』は、その当時は思いもしなかったけれど、沖縄で次々と生まれる新しいロック音楽からアメリカ占領下や72年の祖国復帰の匂いのなくなったこの時代となっては、ある意味、時代の証言とも言えるうたなのではないかと思いますが、やはり『タリラリ~』や『あざらしのうた(タイトルを忘れた!!)』が候補に上がらなかったのは、「普遍性のなさ」なのではないかと思います。
この地球の中の小さな小さな島『沖縄』の小さな家族や出来事を歌いながらも、それは、多分、アフリカの奥地でもアイスランドでも共通の風景がある様に思います。
1曲1曲のその中に狂おしいくらいの沖縄への愛が沢山詰まっていますが、その愛に触れ、自分の中の何かを愛するココロに共鳴します。
『AOZORA』『大歓喜』『月下美人』はレコーディング中も密かに泣けてしまいました。
こんなうた、ニーニー以外の誰にも書けません。
前述の様にお互いに社会への違和感や不信感があったのですが、ライナーノーツに書いた言葉と重複しますが、私の「自分の命にたいする不確かさ」から来る社会や世界への不信を根底とした違和感と違い、ニーニーの感じるそれは『国家VSマイノリティー』という背負ってるものの大きさを感じ、時間を経るごとにその差はどんどん大きくなって行きました。
「沖縄ばっかりのうたは歌えない」
と、当時のうちは良く言っていましたが、ニーニーはニーニーで「オレにはこんなうたしか作れない」と言っていました。
(とっとと「方向性が違うんだね」と解散でもしてそうなもんだのに、なんでかね~)
そして、どんどん、どんどん歌えないうたが増え、喧嘩しながらも2人の納得の行く方向性を模索しながら今に至りました。
うちも那覇と東京との2重生活をしたり、沖縄以外の異文化に触れたり、音楽を通じて様々な出会いを経た事で、あまりにも色んな意味で重かった「沖縄」と「私」の適切な距離が出来、歌えなくなったうた達と新たな出会い直しが出来ました。
「25年」をひとつのうたにする事は出来ないけれど、こんな風に自分達の歩いて来た道を歌えなくなったうたを通して表現出来た事に何よりも時間の重みを感じます。
それは、聴いている人には伝わらない事なのかもしれないし、うちとニーニー以外だれも「25年間の寿[kotobuki]」を知らないわけだから、伝わる事は絶対にないのかもしれない。
「誰にも伝わらないものは商品として販売する価値がないわい!!」と言われてしまえば「そりゃ、すいません~」としか返答の仕様がないのでございますが、今のアコースティックの寿[kotobuki]とは全面的に表出しているものが違っても、「これも私たち寿[kotobuki]の現在なんです」と自信を持って言えるアルバムです。
どうか、皆様、是非ご一聴下さいませ。
宜しくユタシクお願い致します~
寿[kotobuki]ナビィ
~kotobuki2010/SONG NOTE~
ナーグシク ヨシミツアルバムkotobuki2010について語ります、CDのライナーノーツにはここに書いた事を最小限にまとめて掲載しました。
寿[kotobuki]のサウンドスタイルは1995年から徐々にバンド編成からシンプルなアコースティック&沖縄民謡スタイルへとチェンジしていくが、その過程はアルバム「継いでゆくもの」(1998)~「寿魂」(2005)などにて知る所だと思います…。
それ以前の未発表やエレクトリック・バンド・スタイルの曲作品を、いつか記録として残さねばと思いつつ…ライブ活動で日々が経過するばかりの中、当人達の記憶内で消えかけてる曲もある事や、寿[kotobuki]の活動にひとつ区切りがつくのも含め「もぅ今しかない!」と重い腰をあげたタイミングが活動25年となったしだいです。
当時バンドブームまっただ中!
良い意味も揶揄も含め
「寿[kotobuki]は音、表現ともに10年先いってるから一般的には受けないよ~…」
とよく言われたが、たしかに今では沖縄含めた若いバンドなど民謡&ロック&なんでもありのミクスチャーなんて当たり前だが、当時は他にあまり見当たらないバンド寿[kotobuki]は玄人受けのヘンテコ?バンド扱いだった…(笑)
がっ!しかし「エストニア・ロック・サマー91」に参加・演奏して地元の熱狂的反応や数々のヨーロッパ圏の海外メディアに賞賛された時に「なんだ!日本が遅れてるんだっっ!」
と小さく勝ち誇った(笑)事を思い出します(詳細:ヒストリーブック寿魂/参照)
さすがに当時の若さゆえのハチャメチャ感(…意味不明なアホな事をステージで多々やってた…)やサウンドの再現は無理ですが、変わらない寿[kotobuki]、魂のメッセージや想いは凝縮されてる、寿[kotobuki]の歴史が詰まったアルバムだと思います。
…個人的には2枚組アルバムにしたかったほど、まだ収録したい曲があるのですが、それはまた別の機会のお楽しみにしましょう。
寿[kotobuki]ファンにはもちろんですが50年、100年後と出会うべき人達に聞き継がれていってほしいアルバムです。
Kotobuki2010
『てぃんさぐぬ花』
琉球人の倫理観から宇宙観まで表現したシンプルにして壮大な美しい代表的な沖縄民謡です。
寿[kotobuki]の2人がバンドを始めて最初に演奏しはじめた民謡であり、当時ライブでは「金網の向こう側」のイントロ導入で歌ってました。
全ての始まりにふさわしくアルバムオープニングとして収録しました。
『金網の向こう側』
この曲を作ったのは1980年頃、学生だった自分の鬱屈した思いも詰まって、当時はさらに青臭く曲も荒削りでした。
少年の頃 憧れのROCK MUSICを届けてくれるアメリカ文化と、嫌悪する沖縄の軍隊アメリカの現実…アメリカの姿とは何なのか??自分の中のアメリカはどこなのか?
自分の音楽原点は その矛盾や狭間でつくられたのかもしれない…。
1988年・東京にて、自分は水を得た魚の様に寿[kotobuki]でエレキ・ギターを弾きまくってた。
ウッドストックでのJIMI HENDRIX風のギターがシニカルなアレンジでアメリカ国歌を奏でると…ナビィは星条旗をブンブン振り回しシャウトする…
そんな光景が日々ライブハウスで見られた…
何処にも向けられず彷徨ってた2人の青春のエネルギーが音楽で放たれる居場所をついに見つけ始めた時期である…。
まさに初期・寿[kotobuki]の真骨頂な代表曲です。
『奇跡の詩~キセキノウタ~』 1989作品。
大自然や大宇宙の中で人間はちっぽけな存在、その虚無感の中、ただ人はつらなりつながり魂は永遠と生きる…脈々と継がれ、いただいた命の意味を問い続け大切に生きなければいけない…。
寿[kotobuki]の持つスピリチュアルな世界ひろがる大曲だが、シングル発売されカラオケまで?入った作品(笑!誰が歌ったやら?)
曲展開や雰囲気、そしてエレキギターを弾く中でも寿[kotobuki]で1番好きな曲でした。
沖縄の真昼の白く眩しい誰もいない海の砂浜や、風音が吹き抜け揺れる さとうきび畑の中に1人でいると黄泉の国に来た様な不思議な感覚になる事がある…。
人間は戦争で何もかも失なっても、また出会い、愛し、家族を育み、焼け野原から街を復興させ、力強く生き…また延々と道は続く…。
自分達が日々、あたりまえに生き暮らし、出会う全ての事が奇跡なのかもしれない。
『大歓喜』
1995~96の作品。
ずっと多くの寿[kotobuki]ファンからCDレコーディング化を望まれ続けた曲、感謝を込めて収録。
1995戦後50年、沖縄戦の終結、捕虜収容所の解放や、この時期から寿[kotobuki]が深くかかわり始めたアジア各国の従軍慰安婦の方達の証言…
50年にして苦しくても、ようやく伝えはじめる事が出来た それぞれの体験や想いが重なり、今も世界中で虐げられてる命への未来のメッセージとして歌われてます
「自由や尊厳を奪われてもよい命など絶対に無いのだ!この地球上に!」と。
『がじゅまるの木の下で』『光』
当時コンサートのクライマックスでは必ず演奏、そして大合唱&爆発!!の人気の2曲でした。
今でも寿[kotobuki]と言えば「がじゅまるの木の下で」と言うファンが多い。なんらかの形でも、スタジオ録音ヴァージョンはいつか残したいものです。
小さい頃から、よく聞いた母方親族の沖縄戦の体験を元に曲を書くつもりで準備をしていました…。
1991寿[kotobuki]は「ソビエト連邦崩壊!バルト三国独立」のニュースを見て、奪われたエストニアを取り戻すため誇りを持ち生きてる民衆や出会った人達を想い、共に勝利した気持ちになり歓喜した…。
すぐに神の啓示の様に2曲が出来あがりました。
「奪われ続けても魂までは渡さない!虐げられ翻弄された国や人達こそ痛みを知り、強い愛で未来を作り、光を放つのだ!」
大国に翻弄され続けてる琉球民族と重なり合うエストニアの歴史に何度も胸が熱くなった…
かけがえのないエストニアでの体験と、民衆に勇気をもらい後押しされる様に出来た寿[kotobuki]入魂の2曲です。
「がじゅまるの木の下で」は沖縄、横浜寿町、外国でのライブなどなど、寿[kotobuki]の行く先々の歌う場所に溶け込み、新しく違う姿に変わってく、まさにガジュマルの木のような不思議な力を持つ曲だなぁと感じた事がありました。
…寿[kotobuki]の他の曲も全てですが、若い世代やたくさんの人に歌い継いでいってほしいな~と思います。
『ユリの花』
今回 残念ながら収録外れた「南風」の続編の曲です、レコーディング中に妄想の中で「世界のウチナンチュー大会」テーマソングで流れてる事に勝手に決めてました(笑)!!
…歌詞中のさとうきび畑の中の家も消え、ユリの咲く山(丘)も住宅が立ち並び、もうありません…。
変わりゆく故郷の姿…しかし胸の中に刻み込まれた懐かしい人達や風景を思い出せえば、生きていて何があろうと、どんな場所にいようと、今の瞬間を力強く生きていけます…。
人は記憶の中に生きてる…、後悔する過去があっても今の自分が愛に満ちて生きれば、愛おしい思い出に変わっていくはずです。 皆さんも思い出の花を摘みに行ってみてください、あなたの魂のふるさとへ…。
『青空に囲まれた地球の頂点に立って』
1989年の寿[kotobuki]代表曲。
他の音源もありました、しかし録音状態は良いとは言えないですが、それからの寿[kotobuki]の音楽活動や生きる価値観まで影響を与えた独立運動フェス「エストニアロックサマー91」の記録、あえて そのライブ音源を使いしました。
この曲を作った1989年、当初は仮タイトルで「青空と地球…(云々?)頂点の島で…(云々?)」てな…まだぼんやりな感じでしたが、引き寄せられる様に大好きな沖縄詩人「山之口貘」の詩集に、まるで同じ世界を見た様にシンクロするタイトルを見つけ、畏敬と敬愛を込めて詩のタイトルをそのまま曲名にいただきました、…青空に囲まれた地球の頂点に立って…。
…自分の祖父は糸満海人(ウミンチュ)で、父はその血を継ぎ南洋パラオ諸島で生まれました、太陽光にきらめく海で現地の肌の黒い子供達と半裸で遊んだ話をよく聞きました…。
父は南島で半裸ではなく大阪でスーツのサラリーマンとして1989年に亡くなりました…
そんな父親の死により自分は人生観や死生観、歌に込めるメッセージまで変わりました。
身勝手ながら今では自分のためのタイミングで亡くなり、なにかを教えてくれたのかとさえ思ってます…、人間の生き死にかかわりは全て必然なのだろう…。
出会いと別れを…
宇宙よありがとう。
『月の夜』
アルバム「継いでゆくもの」でアコースティック・ヴァージョンとして収録してますが、こちらのレゲエ・ヴァージョンがオリジナルになります、ブラス・ホーン・セクションなどを入れてスタジオ録音の夢がありましたが…今回は1996年のライブ音源での収録でお楽しみください。
この星のどこかで戦場になった夜も、穏やかな時代の夜も、ずっと、ずっと太古から月はやさしく光を照らす…。
誰かが死んだ夜も 命が生まれた夜も…泣き笑いの人間の営みの日々を月は変わらず静かに見つめていてくれる、いままでも、これからも…。
寿[kotobuki]の宇宙観を示す荘厳で珠玉の大曲。
『道』
1989年、時はバンドブーム絶頂!ライブではかかせなかった曲。
芥川賞小説「オキナワの少年」(東峰夫)と当時のニューエイジ・ムーブメントに触発されて?書かれた、寿[kotobuki]には珍しい抽象的な詩世界とR&Rの3コード的なノリが今となったら希少な、ストレートな寿[kotobuki]流ロケンロー!です。
『AOZORA~少年の日に見た青い空~』
「金網の向こう側」と共に初期・寿[kotobuki]の代表曲。
1988年ライブ演奏時はサイケデリックで複雑かつプログレ的な大作アレンジでしたが(10分以上はあったかも(笑)…20年後の今回の収録アレンジは超シンプルな??(笑)ストレートな良い作品になりました。
収録曲を決める前は さすがに、この曲は無理かな~と悩んでましたが、我先にナビィはハマって歌ってました(笑)
…この曲は「沖縄と言えば明るく楽しい曲サ~(笑)」的な人種?には表現できない(理解したくない?)南島の光にある影の部分、痛みとやさしさ、そして愛…そんな世界や、まとわりつく様なドロッとした空気や島のイメージを表現した秀作と思います(自画自賛~(笑)
……
南の島の日差しは痛いほど強烈で眩しい、それに比べ昼間の家内はやたらと薄暗いと感じてた…。 強い太陽光に目がやられてたからだろう…。
地上戦に巻き込まれ軍民共に戦い、4人に1人が死んだと言われる沖縄の人達は、戦争で亡くなった身内縁者が必ずいる。 友人や他人の家を訪れると、どこでも仏壇に遺影がズラリと並ぶ、老人や軍服の若者、子供、赤ん坊まで さまざまだ。
子供の頃は戦争で精神に異常をきたした人や体に障害を背負った人、心に傷を負い静かに暮らす人達が(そんな人達を集めた場所も) まだ たくさんいた、時を経て異常をきたす人が今もいる…。 (戦後すぐ日本に切り捨てられたアメリカ統治の沖縄にそんな人達をケアする…しなければならないはずの手段すら及ばず…)
「青い海と空の下、のんびり暮らす人達」…観光で沖縄に来たら そんな印象で思い出を残すだろうか? 少年の僕の中のオキナワは「AOZORA」の曲世界に全て表現されている…。 東京でナビィに出会って聞き、それまで自分の持ってた広島のイメージも近いものを感じた…。終わらない戦争が続いてる人達は たくさんいるのだ…。
そんな人達が癒される事、そんな日は来るのだろうか? 少年の僕は 青い空と共に心に刻み込んだ……「愛を全てに」と。
『月下美人』
「サボテン類/夏の夜、純白大輪の美しく香りのよい花を咲かし、4時間ほどでしぼむ」沖縄では月下美人を育ててる家が多い、亜熱帯に似合う花である。
この地球に生まれ、戦争や差別や貧困と…現実があり世界は今日も悲しみに溢れてる…。 しかし この瞬間も地球の上には言葉も宗教も肌の色も違っても、自分達と同じ様に家族を愛し、泣き、笑い暮らす人々のあたりまえの日常がある 。
寿[kotobuki]は世界中の色んな国の人達と出会い歌った…。
誰もが本当にやさしい人達だった。
そう、人類とは そう変わりはないのだ…
愛されてる子供達には輝く笑顔があった。
そこには未来の希望があるのだ。
…今日もこれからも、地球の上の何処かで笑い!歌い!寿[kotobuki]の歌の旅は続いているであろう。
寿[kotobuki]
ナーグシクヨシミツ
【30周年(2015年)記念アルバム】寿[kotobuki]30th Anniversary 『もう愛しかない』絶賛発売中 - 9月15日(金)『へっころ谷の沖縄ナイト』
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