今年の8月6日はお知らせしたように”広島音おんらく楽まつり”に参加したので、高校2年生の夏の式典参加以来、原爆の日を平和記念公園で過ごしました。
この日は、やってる事はそれぞれ違っていても想いを同じくした人達が公園内の色んな所で色んなイベントを立ち上げていました。
人のエネルギーや想い、氣というのはやっぱり凄いなと思います。
私の印象では平和記念公園はやはり哀しみや痛みなどのどちらかと言えば負のエネルギーに溢れているような気がするのですが、私の見方が変わっただけかもしれないけれど、平和を祈るこの日はとても温かな優しいエネルギーが充満していたような気がします。
私自身も温かく優しい想いで1日を過ごしていたと思いますし、常日頃から私達ひとりひとりがこの日のような優しい想いを分かち合えたらいいのになと思います。
私は心理学者でも研究者でもないので断言出来ませんが、人は自分の価値を自分で認めず、自分を無価値なもののように扱い始めると、自分の心の声や本当の気持ちをどこまでも軽んじて蔑ろに出来てしまうので結果として、簡単に他人に心を操られてしまう人になってしまうような気がします。
また、自分を大切に出来ず自分に与える事をしないで他人に与えてもらうことばかりを望んでいると、自分の欠乏感ばかりが目について『自分は満たされていないのにほかの人はあんなに満たされている』というひがみやねたみになり、自分だけが不幸だという思い込みが生まれるような気がします。
そして自分が不幸なのはアイツのせい、とか、~のせいとか、他のもののせいにし怒りを感じる様になるのではと思います。
私が意味もなく何だかイライラする時、その心を注視すると自分がとても軽んじられているように思える時が多い気がします。
(それは気の性で他人がというよりは自分自身が軽んじているだけなのですが、、、、、)
それが行き過ぎたら、通り魔殺人とか民族浄化とかヘイトとかマイノリティーの差別とか、最近、私が本当に嫌気がさしたSNS上での罵倒し合いのコメントとか、、、
自分が不幸なのは、自分が不愉快なのは、自分認められないのは、あいつの、こいつのせいだから、だから「人を傷つけてもいい」という極端な理屈が出来上がり行動にでるように思います。
人間は他者がいるから自分が判るという意味で比較する事が前提の生き物で、比較があるからねたみや嫉妬もあるけれど憧れや尊敬、人に希望や夢を感じたり出来るという面もあると思います。
だけど、嫉妬も羨望も、ただ自分の心の反映でしかなく、
本当は自分がそう在りたいけど自分に禁じている事を達成している人には嫉妬
自分が素直にこう在りたいと認められる事を達成している人には羨望や尊敬
真逆の方向を向いているようでその中心にあるのはどちらも等しく自分の願望で、それが”人の姿”となって現れただけに過ぎないのではと思います。
その願望が自分にとってどれほど価値があり、どれほど魅力があり、どれほど手に入れたいものか?は自分以外の誰にも判らないから、手に入れるか諦めるかも自分が自己責任で決めるしかなく、他人から見てどうか?というモノサシは本当に不要でしかありません。
でも、私達はすぐに『常識が』とか『年齢が』とか、他者目線を導入してしまいます。
そうする事がずうっと当たり前だと思って来たからです。
全ては自分にあると最近の私はますますそう思っています。
自分の軸をいかに太くゆるぎないものにするか?に夢中になればなるほど、私はどんどん豊かになるでしょうし、自分が豊かだったら人から奪ってでももらおうとする必要もなくなるんだろうなと思います。
私も含め、沢山の人達が自分を豊かに幸せにする事に夢中になったら、今ある問題の殆どがいつの間にか解決するような気がします。
それは地球上の問題の殆どが『欠乏』に基づいていて、そして『奪う』という行為で解決しようとしているように思うからです。
私達は『今のままでは欠乏がありますよ』と脅されモノを買わされ、本当は充分過ぎるくらい豊かかもしれないのに『これを手にしたらもっと豊かになれますよ』と脅され、『あなたが望んでいるものきっとこれですよ。ほらほら皆も持っていますよ』とまたまた脅され、どんどん自分本来の望みとはかけ離れた望みを持ち、自然界から途上国と言われる国から”奪ってでも手に入れる”という選択をした結果が今の”憎しみの連鎖の世界”だと思うのですが、この状態を変えたかったら選択を変えるしかないし、選択を変えるためには、自分の本当の望み『どう生きていたいのか?』を自分が理解するしかなく、上述のような事が重要に思えるのです。
人それぞれに色んな望みがあると思うけれど、人が生きて行く上で本当に望んでいるもののひとつには優しい思いやりに溢れたふれあいや語らいや、自分が満ち足りているという安心感だったり、、、、そんな『自分にも他者にも優しい関係』なんじゃないかな〜と思います。
私自身をみても周りの人を見ていても、優しく在れない事、優しくされない事に傷ついたり哀しんだり、優しく出来る事、優しくされる事を望んでいるような気がします。
また、自分にも他者にも本来の意味で優しく在れる人はやっぱり同じようなパートナーを見つけ愛情に溢れた関係を築いているように思います。
そのような人達にとっては『優しい関係』というのは本当に当たり前の事で特別な事でも何でもないのだろうなと思います。
私達の多くが特別な事でも何でもなくなったら世界はもっと優しさに満ちるのではないかなと思います。
自分の中にどんどん優しさを注ぎ込んで行ったらいつか愛や優しさが満ち満ちて溢れ出て、それこそ”愛の泉”状態で涸れる事なく自分に与え続ければ溢れ出て来るのではないでしょうか?
そしてそれはまるで”我うたう愛のうた”の歌詞のように”あげてもあげても、それはなくならないよ”状態!!
自分に与える事が外側の世界に与える事になるのでは?と思います。
だからやっぱり先ずは自分に与える事。
そこから始まるんだと思います。
一人に帰って自分の中をよく見る「ほんとうはどうしたいの?」その問いの答えを聞く、感じる、ただ受け取る、そして行動する。
もしも自分に欠乏感があるなら、それを他者からもらったり奪ったりするのではなく自分に与える事によって満たすこと。
それは小さい事かもしれないけど、そういう個人の変容は世界の変容の大きな一歩のように思っています。
それは『選択』という行動に大きな影響を与えるからと思うからです。
余りに色んな事が在り過ぎて、時々とてつもなく不安な気持ちになりますが、私は自分のこの感覚を信じて世界からあらゆる暴力がなくなる事を想像(創造)しようと思います。
71回目の長崎原爆投下の日に想いを込めて。
長い文章を読んで下さって有り難うございました。
今度のライブは8月12日(金)寿町のライブです。