昨日1月11日はいつもライブに来て下さる松本さんのお宅で”いちゃりばーず”と岡村聡さんとウエチーノさんと一緒に恒例になりつつある新年会ライブでした。
普通のお宅でドラムセットも持ち込んでのライブというだけでもなかなかないと思いますが、松本夫妻の「みんなと楽しみたい」という想いの深さか、毎年「これでもか!!」ってくらいのご馳走三昧に加え昨日は鰤の解体ショーまで準備して下さいました。
毎年、ご馳走の仕込みやら買い出しやら本当にお疲れ様です、有り難うございます〜
関西からやって来れた参加者もましたが、出演者も参加者も相当楽しんだはずです。
感謝!!!
(お誕生日の前祝いもして頂きました〜!有り難うございます♡)
ピースボートの旅のご報告、その続きです。
クリスマスのベトナムを出航して4日目早朝。
私達にとって最後の寄港地、シンガポールに到着しました。
シンガポールに近づくにつれ、タンカーや豪華客船などピースボートの船以外の色んな種類の船が急に増えて来ます。
シンガポールは国土は本当に小さいけれど、物、人の流れなど私が寄港した事のある他の港とは比べ物にならないくらい多く、激しく世界の中でとても重要な国なんだという事がよく判る光景だなと思います。
こんな小国でありながら、独立を保ち経済も安定し隣国との問題もなくやっていけているのにはどんな知恵があるんでしょうか?
バリに半年滞在した時、ヴィサの関係で二月に一度インドネシアから出国しなければならず一番安く行ける外国がシンガポールだったので2回も来たし乗り継ぎで寄ったりもしてるのでそれほど久しぶりではなかったけど、港に着くのは9年ぶり。
そして、やっぱり港の周りも開発が進んでいて地下鉄で「リトルインディア」まで行ったけれど、遠くに高層ビルが沢山見え昔とは随分変わっているように見えました。
リトルインディアの市場のフードコートにはマレー料理屋さんも沢山あって、マレー語とほぼ同じインドネシア語が通じるのでハイテンションでガンガン辛いものを頼みまくりましたが、同じ料理名であっても出て来てみると形状が全然違っていてびっくり!
でも、でも、美味しかったよぉおおおおおおおおおおお。
今すぐまた食べたいぃいいいいいいいいいいいいいいい。
ニーニーもわけの判らないマレー語(インドネシア語)の料理名を聞かされて私のおススメするままに注文し食べてましたけど「うんまい、うまい」を連呼し満足してくれたようで良かった~~~~
でも、有り難い事にニーニーは食品アレルギーも好き嫌いもなく食わず嫌いもなく何でも食べるそして、何でも食べたい人なので相当おかしなもんでもない限り大丈夫なんですけどね、、、、
屋台でマレー系のおじさん達と相席になったのですが、私達の料理を持って来てくれたおばちゃんが「この子、日本人だけどマレー語(インドネシア語なんだけどねー)が話せるのよ」と言った瞬間、めちゃめちゃフレンドリーになって「これ食べてごらん」とおじさんが食べている焼きそばのお皿を私達の前に差し出してくれました。
香港スタイルの焼きそばでちょっと頂いてみましたが、めちゃうま!!!
やっぱりアジアは美味しいものに溢れていていいなぁ~~~~~
市場に行っても色んな色に溢れていてアジアはやっぱり豊かなんだよ〜と再確認しました。
既に豊かなんだからこれ以上、自然を壊して有害なものを増やして『富』に様に見えるものを手に入れなくても既にある豊かさを享受したいよね、と思います。
がしかし、何故かリトルインディアに行ったのにカレーは食べなかった!
痛恨の極みです、、、、
(滞在時間も少なく食べる事に夢中過ぎて写真がほぼナシでした)
船内のクルーは色んな国から来た人達が乗っていましたが、中でもインドネシア人、フィリピン人のクルーが多く、インドネシア人クルーとは沢山話しが出来て、有り難い事に毎日が無料インドネシア語会話レッスンのようでした。
でも、わたくし、インドネシアはバリ島しか知らずやっぱりジャカルタやソロ、スマトラなど別の島から来た人達よりはバリ人が一番話し易いし聞き取り易い。
改めて島によってアクセントや言い回しが全然違うんだな~と思い、インドネシアの広さを感じました。
そんな中、バリ人クルーの中でもまるで昔からの知り合いのような親しみを感じるような二人と出会いました。
時間がある時は二人が仕事をしているバーでコーヒーを飲み、色んな話をしお互いに日本語、インドネシア語を教え合い、バリの宗教、文化について教えてもらい、ゲラゲラ笑い合い短い時間だったけどすごくいい時間を過ごしたので別れの時は本当に寂しかった。
「またバリで会おうね」って約束したけど、彼らの船での仕事はまだまだ続くし、いつ会えるかな~。
3人でバリで遊んでる姿をイメージしつつ楽しみにしていよう。
それにしても、インドネシア人とフィリピン人っていうのはどうしてあんなに『人を楽しませる事で自分が楽しむ』という能力に長けているんでしょうかね~?
彼らといると本当に楽しいし、見習いたいところです。
そして、彼らは遠くから見るとほぼ同じ(失礼!!)に見えるので初めて会ったフィリピン人クルーにうっかりインドネシア語で挨拶してしまい「インドネシア人じゃないよ」と寂しそうな顔で言われる事もしばしば。
そして、唯一知っているタガログ語の「ありがとう」を口にするともの凄い笑顔と勢いでタガログ語で話しかけて来るのですが私が「ありがとう、しか知らないんだよ~」と言った時のもの凄い寂しそうな顔。
「ムキ~~~~~~何で私はタガログ語が話せないんだ~~~~~~!!」と自分を責めたくなりました(笑)
船内での企画は寿[kotobuki]主催のものと私個人の主催のものとで、忙しく過ごしました。
12日間でライブは小さいのも入れて3回(+ベトナム) 「シェーナウの想い」上映会 「地球の迷い方~寿[kotobuki]流、旅の楽しみ方」洋上盆踊り大会で使う音源のレコーディング
私主催の企画は「心の平和」と「インドネシア人クルーと話してみよう」という簡単なインドネシア語の講座をやり、だいたい1日に2つの公演、講座をやりました。
「心の平和」は一昨年くらいから実際に自分の身に起きた変化や学んだ事を言葉にして誰かに伝える事で自分が確認するという意味合いがあったような気がします。
本当はもっと丁寧に10回くらいに分けてやれたら良かったとは思うけれど、寄港した日は船内の企画はないので実質8日間という限られた時間の中でどう伝えたらいいのかをピースボートの寿[kotobuki]担当スタッフと結構な時間を割いて話をした事が私にとって凄く良かったな~と思いました。
大きなテーマとしては「『自分』の中の『自分を見る目』を変える」という事と「自分を許す」という2つ。
「自分を許す」というテーマの日は話している最中にも幾人かの方が泣いていらしたり、終わった後も「話しをしたい」と寄って来て、それぞれの想いを伝えて下さった方もいらして、「私の哀しみや痛みは私だけのものではない」という事を改めて感じました。
そして、もしそうならば私が痛みや哀しみから解放され自由になっていくという事は同時に多くの人もそうなっていくという事でもあるんだろうな~とも思いました。
今回も楽器を持参して乗船された方々のセッションライブもやりました。
『KTBK30』はサックス2人
『ORION』はフルートとギター
『もう愛しかない』はギター2人
shyのアニキがピースボートに乗船した時に作った『ありがとう』はウクレレ4人
『安里屋ユンタ』は三線を持って来た沖縄の青年と。
そして『我ったーネット』は船内カルチャースクールでサンバを教えているマーク先生とその講座を受講されている乗客の皆さんと総勢100名くらいのダンサーをゲストに、気が付けば観客全員総立ちで踊りまくってました。
凄かったなぁ~あれは。
船内は酔い防止のためかなり冷房が効いていて乾燥もしているし、デッキでライブすると潮風と排煙とでかなり喉には過酷な環境なのです。
今までの経験から今回も部屋には洗濯物を常にぶら下げ、寝る時は濡れたマスク着用、蓮根飴を舐め白湯を飲み続け、うがいをし、ツボを押し、レストランに行く度にオリーブオイルをもらって飲み、色んな事に気をつけてもそれでも最後は声が枯れ切ってしまいましたが、やり切った感は満載でしたし、本当に楽しかった~~~~~~~~~~
お世話になった皆々様、有り難うございました!
(横浜から那覇まで建設親方こと真喜志好一さんも乗船。久しぶりに語らいました!)
最後に最初の寄港地の那覇の事を書きます。
初めて船で沖縄に上陸しました。
去年の7月に那覇・波の上ビーチから若狭港に大きな客船が停泊しているのが見えて「ほ~~~~~、あんなに大きな船が停泊出来る港が出来たんだね~」なんて思っていたら、まさか半年後に自分がその港に降り立つことになろうとは思いもしませんでした。
早朝の入港時は前日のライブの打ち上げ疲れ(笑)もあってスースー寝てしまっており感動の那覇港入港は経験出来ませんでした。
その後、夜(確か21時だったはず)の帰船リミットまでノープランで那覇、首里をぶらぶらし、いよいよ那覇から日本出国。
船が大きく動いて桟橋を離れた瞬間、名曲『別れの煙』が脳内BGMとしてヘヴィーローテーションし始めました。
この歌は移民で島を離れる子供を思って旅の安全を祈りつつも、別れの寂しさ、その親の心を歌ったものです。
デッキからは湾曲した沖縄本島の本部の辺り(と思う)まで続く灯りでキラキラと輝いて見えました。
少しずつ小さくなってゆく那覇の街の灯り、だんだん遠くなって島影が完全に見えなくなるまで1時間近くかかりました。
若狭から南部方面へ進む船から見える沖縄本島の形は鳥の翼のようで、そしてとても美しかった。
どういうわけか私は涙がボロボロ出て来て止まらなくなり猛烈な寂しさに襲われました。
一体何であんなに寂しくなったのか?全く判りませんが、昔の人達はこんな風に小さくなる島を愛でる様にいつまでも別れを惜しんでいたんだろうなと思いました。
(若狭港のすぐ近くに”瀬長亀治郎記念館『不屈館』がありました。生まれて初めて”那覇”からの出国スタンプ!!)
那覇ではとても不思議な正に「呼ばれた!」的な事がありましたが、それが今だになんなのかがさっぱり判りませんので、またいつか。
12月30日 シンガポール空港からベトナム・ホーチミン経由で早朝の成田に帰国しました。
新暦の寿[kotobuki]結成30年イヤーはこんな風に終わりました。
沢山の人達にお祝いして頂き、船内でも800人近い初めてお会いしたばかりの人達からお祝いして頂き、お目出度いこの1年を沢山の人達と賑やかで華やかに過ごさせて頂きましたが、最後の日はニーニーと二人に戻りました。
それも、とっても粋な神様のはからいのように感じました。
旧暦2015年が明けたら最後の旧正月ライブが待っています。
2015年、皆様、本当に有り難うございました。
そして2016年も何卒宜しくお願い致します。
ではでは、また。
ナビィ