昨日は、楽しみにしていた『霊山里山がっこう』でのライブでした。
本当に気持ちのいい空間で気持ちよく歌わせて頂きました。
楽しんで頂けたご様子で、うちも幸せでした。
皆さん、本当に有り難うございました。
打ち上げで、「寿[kotobuki]のライブには『磐城壽』でしょ!」と日本酒を差し入れて下さいました。
この酒蔵所は元々は計画的避難地域に指定された浪江町にあり、避難された山形で蔵を借りて作られたのがこの1本。
日本酒は苦手だけどコップ1杯美味しく頂きました。
打ち上げで色んな話が出ました。
去年1年の避難生活で亡くなられた方が100人を越えたとか、爆発直後、放射線量の高い地域に避難させられた方で、甲状腺が腫れ亡くなった方が3名いるとか、復興庁が出来ても霞ヶ関の言いなりで全然被災地のニーズに応えられていないとか、ある震災1年の復興祈願のイベントが電通のしきりであるとか、、、、、
甲状腺が腫れた話は、内部被曝1年満たない現状で甲状腺に異常を来す事は考えられないという意見もでたけれど、福島原発は震災前もしょっちゅう止まる事故があり実は何年も前から放射能は漏れていて少しづつ内部被曝していたのではないかという意見も出ました。
亡くなった方の血液検査の結果であるとか、検死をするとかして原発事故による放射線被害との因果関係を調査すべく精査をすれば良かったんじゃないかと思うけど、それもされず、今も、1名、同じ様な症状で苦しんでいる方がおられるそうで、その方は「手の施し様がない」と2ヶ月で病院を出され仮設住宅で呼吸が巧く出来ないほど甲状腺が腫れているので酸素マスクをしながら生きながらえているという話でした。
それはどういう事なんだろうか?と考えるとぞっとします。
今日は郡山市内の野球場で行われた約2万人が集まった集会に参加して来ました。
風は冷たく、震災当時もこんなに寒い中、避難するために移動をしていたのかと思うと言葉を失いました。
2時46分に全員で黙祷しましたが、その時間が近づくと一緒に行ったOさんが「この時間が来るのが怖いよ〜また地震が来たらどうする?って皆と話してた」という話をし始めました。
もちろん、同じ時間に地震が来るなんて本当に思ってるわけではないでしょうけれど、それだけ大きなトラウマになっているという事ですよね。
その言葉で、改めて1年が過ぎたところで到底癒されるものではないという事に気がつかされました。
集会の中でも、山形で避難生活を送る人、飯館村から浪江町から漁業関係者、有機農家、高校生、色んな立場の方が自分の視点でその想いを報告されていましたが、その言葉の中に在るのは、哀しみ、絶望、虚しさ、憤怒、だと感じました。
1年という時間の経過は何を変えてくれたのかと、そんな叫びのように感じました。
それは福島だけではないんじゃないかと、でも他の被災地を見ていない私は想像でしか言えないけれど、2011年3月11日から時間が止まった様に感じている人達が多くいるのではないかと思います。
実際、復興や事故の収束は未だ進んでおらず、殆ど何も変わっていないわけだから。
「去年は季節の移り変わりなんて感じる事がなかったですね。いつの間にか1年が経ってたな〜って感じです」とぼそりと話してくれた人もいました。
その言葉は、本当に重い、重かったですよ。
うちが出来る事は本当にちっぽけですが、このブログを読んで下さった方で今まで被災地に関して無関心だった方が、少しでも何かを感じて下さったら本当に幸いです。
こんな稚拙な文章でも、誰かの心に留まって何かを動かし、被災地の役に立てたらいいなと思います。
被災地、特に福島の惨状はそうそう簡単に解決はしないと思います。
だからこそ、多くの人達が想いを寄せ少しずつでも良い方向へ向かう様、明るい兆しが見える様、知恵を出し合い協力し合わないといけないと思います。
多くの人が癒され、本当の意味で歩き出せる様に。
被災地に愛を。