週刊「ナビィ、の部屋」第48号
ハワイイ!!ハワイイ!!
ハワイイ!!ハワイイ!!初めてのハワイイ!!でも一泊だったんよねぇ、、、
ホノルル滞在時間多分3時間くらい、ワイキキビーチも見てないさ〜
ハワイイのお話、長いけど、素敵な出会いあったので読んでちょ〜ね
今回は急にピースボートに乗船する事になり、急な乗船にあたって高飛車なお願いをしました。
それはオプショナルツアーにある「先住民の村を訪ねる」ツアーに参加させてもらえる事
もうひとつは沖縄移民の唄者に会える様にどうにか手配してもらう事。
このちょ〜〜〜〜わがままを叶えてもらって、1日目に沖縄移民3世の沖縄民謡、古典師範 グラント村田さんにお会いする事が出来ました。
本当はラジオのDJをやってるうちなんちゅに会うはずになってて、日本からうちもファックスを送って連絡を取ろうとしてたんだけど、全然返事がなく、ピースボート側からも連絡してくれてたみたいなんだけど、上手く取れず、結局ハワイイの旅行代理店の方から村田さんを紹介してもらったらしいんだが、村田さんと連絡とれたのが、うち達がハワイイに着いた日、当日だった。
P 「日本から沖縄民謡とオリジナルを歌うグループ寿[kotobuki]っていう人達が移民した方のうたを聞きたいと言ってるんですが」
村 「いつ来るの〜?」
P 「今日です」
村 「いつまでいるの?」
P 「明日の夕方までで、明日は1日ツアーに出ます」
村 「あきさみよ〜今日しか会えないさ!!。僕は今日知り合いの誕生日パーティーで歌うから、そこに来るね?」
と、そんな会話があったらしい。
ハワイイのホテルに着いて、村田さんと連絡をとってくれたスタッフ、野平氏から言われたのは
「パーティに行って下さい」
だった。
世界広しと言えども、色んな人がハワイイに訪れてると言えども、ハワイイ着いたその日の夜に、全く見ず知らずの人の誕生日パーティーに、しかもお祝にではなく、余興を目的に出かける人もおるまい。
どんな人の誕生日パーティーかも判らず、しかし手ぶらもどうか?と思ってみんなで食べれる様なお菓子を近所のスーパーで買って行った。
行ってみると、見ず知らずのうち達が「本当に入っていいの????」って思わず聞きたくなるような立派なパーティー。
日系移民1世の御夫婦のお誕生日パーティーを息子さんが開いたもので、立派なホールで、孫のウクレレ演奏からはじまり、村田さんほかうちなー移民の方々の余興御夫婦の歴史を息子さんの素晴らしいギターの演奏と共に上映。
最後は二人でケーキのキャンドルを仲良く吹き消して、ケーキを皆に配ってくれました。
こころ温まる素敵な上等パーティーだったよ。
今どき日本の中で家族が一丸となって、友達が何十人も集って、こんな手作りの、なおかつゴーカなパーティをやってもらえる老人っているかな〜???
主賓のお二人も主催者の息子さんも、うち達が挨拶に行くと「来てくれて有難う、ゆっくりしてね」と歓迎してくれた。
このパーティの主賓のひとりであるお母さんは、ホノルルで沖縄民謡酒場を経営するほどの沖縄民謡好きの岩国からの移民1世だった。
その縁で村田さん一座が呼ばれて余興をしたんだけど、カチャーシータイムになるとカチャーシークイーンのおばぁや「嘉手久(かてぃく)やってちょうだい!!」とリクエストするおばさん、おじさんに混じって、主賓のお二人や他の日系人の方々も踊ってた。
ハワイイならではだな〜と、その光景を見て思った。
差別もあったと言ってたし、この一場面だけを見て断定は出来ないけれど、日系人、沖縄移民は外国の地で、こんな風にお互いの文化をカチャ−(かき混ぜる)しながら生きて来たのだろう、とそう思った。
ハワイイで聴く沖縄民謡はね、何かね、うちは涙が出そうになったよ。
最初に沖縄からハワイイへの移民が始まって100年が過ぎて、その間に日系人社会から差別もされ、戦争もあり、色んな事が沖縄移民にあっても島唄は絶える事なく、3世、4世へと歌い継がれている。
でも、その声ははるか遠い沖縄を想う、『望郷の声』ではなく、ハワイイで生きるうちなーんちゅのゆるやかな、でも凛としたたたずまいがそのまま声になった様な優しくて強い歌声だった。
うちのその時の気持ちは上手く言葉に出来ない。
村田さんが歌い始めた時、胸がぐ〜〜〜っと熱くなって涙が出そうになった。
もちろん踊りもあって、やっぱり同じ様な印象を持った。
パーティー終了後、村田さんとお話をした。
「移民1世はね、楽しみが民謡しかなったみたいね。キビの仕事して、指の先はいつもぱっくり割れてたけど、三線片手に唄っていたよ」
そんな人達の歌声を聴いて村田さんは育った。
村田さんは沖縄民謡が大好きで、中学生の頃には、その頃ハワイイに何十件もあった民謡スナックに勉強がてら太鼓を叩いたり、囃子を唄いながら、毎日の様に入り浸っていたらしい。
「その頃、登川誠仁さんも来たよ、沢山の民謡唄者が沖縄からハワイイに来て稼いで遊んで帰って行ったよ。中学生の僕はその人達の唄をなまで聴いて、盗んで、しかもバイト代までもらっていたわけさ〜」
その頃の話しを目をキラキラさせて語る村田さん。
なんだか、こっちまでワクワクした。
「警察がくるわけさ、中学生が酒場でバイトするのは禁止されてるでしょ?だから見回りが来たら『サンラー(村田さんのあだ名)隠れろ!!』って師匠の唄者が僕をかくしてくれるわけ。
あの頃の僕は一週間で80ドルくらい稼いでいたよ。中学生で、だよ」
中学生でどっぷり民謡と夜の世界(?)に浸っていた村田さんはその後、民謡や方言を学びハワイイで民謡、古典の師範になる。
うちは名前を聞いた時から気になっていた事を尋ねた
「村田っていう名前は沖縄の名前ではないですよね」
村田さんは即座に答えた。
「僕はね、事情があって生まれてすぐに日系人のいまの両親、村田の家に養子に出されたの。でも、僕のお母さんはうちなーんちゅよ。
僕は40才近くなるまで、自分がうちなーんちゅって事を知らなかった。
ある出来事があってぼくは自分が村田の家の本当の子供ではない事やうちなーんちゅである事がわかったんだ。
その後、何年かかけてお母さんを探し当てた。僕がこんな風に沖縄の芸能に携わってると知って喜んでたよ。」
沖縄移民に対する差別が強かった日系社会の中で村田さんが沖縄の芸能に心ひかれる事を日系人の両親はどう思っていたのだろう?
「村田の両親はなんにも言わなかったし、とがめられた事もなかった。「やりなさい」と言って応援してくれた。僕はあの両親に育てられた事を誇りに思ってるし、本当に感謝しているよ」
縁だなぁ、、とつくづく思った。
もし、反対する親だったら、日本人だと思われていた村田さんを受け入れたハワイイの民謡の世界がなければ、今の村田さんはいないし、こうしてうちが出会える事もなったわけだし、、、、、『縁』とはほんとうに不思議なものだ。
ハワイイにいる事を忘れるほど、沖縄なまりの強い村田さん。
1世のおばぁとは強烈はうちなー口で会話してた。
日本人の家庭に育ったのに、なぜ????
「言葉は分からないから1世に習ったよ。習ったって言っても彼らだって普通に話してるだけだから教えられないさ、
だから、彼らが話してる言葉で解らない言葉をノートに書いて民謡の師匠に後から聞いたりしながら覚えたんだよ」
「沖縄の民謡は発音が大事。あの独特の発音、言葉が沖縄民謡の個性だからね。気を付けてるし、大事にしてる所だよ」
一緒にステージに立っていた双児の娘さんが、帰りたい、と言うので、うち達も便乗してホテルまで送ってもらう事になった。
時間が許せばもっともっと話しがしたかった。
人生の殆どを「日本人」だと思って過ごし、民謡や方言を学んで来た村田さんの話しは、ないちゃーのうちにとって、とっても勉強になった。
全く初対面のうちに、心を許して色んな話をしてくれた村田さんや奥さんに感謝だし、そこから学んだ事を、うちなりに活かしていかなきゃなぁ〜と思う。
帰り際に寿[kotobuki]のCDをお礼に渡したら、さっそく帰りの車の中で「継いでゆくもの」をかけ始め、『マミドーマ』を気に入ってくれ、翌日村田さんがDJをしている沖縄民謡のラジオ番組でかけてくれる事になった。
番組の時間と船の出港時間が重なって、番組を聴く事は出来なかったのは残念だった。
最後にホテルの前でうちとにーにーにハグしてくれた村田さん。
奥さんも娘さんも去って行く車の中からずっと手を振ってくれた。
あぁ、もうありがとう。
野平さんもありがとう。
いつの日かは解らないけど、次に会う時は今より民謡が上手くなっていたい。
この出会いのお返しに。