バリでの出来事(こんなタイトルの韓流ドラマがあったわねぇ)
(2013.09.09 日々のつぶやき)
沖縄ナイトにお越し下さった皆様。
有り難うございました!
ミュージシャン、スタッフ、お客様、皆々様に感謝です!
来年も続けて行ける様に頑張りますぅ〜
ところで、さっき、友達に送ったメールでこれはブログに書いた方がいいかもと思った内容だったので書く事にしました。
バリでの日々の中で痛烈に、何度も思い知らされたのは人間の想いのエネルギーは絶大な強さを持っているという事です。
良い想念を持ち、それを放てば現実もそのようになるし、悪ければ現実も悪くなります。
だから、自分の持ってる想念がどんなものであるかを日々、良く見つめていないといけないのね、という事です。
今迄も解ってたような気がしたのですが、バリでそれを突きつけられて実践する事を強いられ(っていうか自分がそうしたかったんだけど)自分の考え、自分が発してる言葉、それを注意深く見つめる日々となりました。
良いっていうのは、多分、純粋であるって事なんだと私は理解しているんだけど、私達人間はそれなりに長く生きていると、失敗という経験を通して沢山傷ついてもいるんだと思います。
だから、何かを想う時、自動的に傷つかないための防衛も働くのではないかと思うのです。
例えば、「こんな事がしてみたい」と純粋に思っても今迄の経験から「やる」「やらない」の判断をしていて失敗が多ければ多いほど、やらない選択を自動的にするんだろうと思いますが、それは自らが純粋な想いを大切にしていないという事になるんだろうと思います。
私は子供の頃、人前で歌い踊る事が大好きだったんだけど、ある日、近所のおばちゃんが母に「自分に酔いしれてる姿が面白い」みたいな事を言い、馬鹿にされたと思った母に猛烈に叱責されました。
母は、「この娘が楽しそうに表現行為をしている姿はみっともなくて自分が恥をかく」と心にインプットされたらしく、その後もエレクトーンの発表会、学芸会、作文コンクールなど、何かにつけて「私に恥をかかせるような真似だけはするな」と言うので、『私の表現行為=恥ずかしい』という認識になっちゃったんですね、どうやら。
理由はそれひとつではないですけど、呪いの言葉(笑)のように母が繰り返すので人前で自分が楽しんでる姿は表現しないように気をつけるという選択を自らがしたのだと思います。
でも、魂というのはすごいもんで、本当にやりたいと望んでいる事は何が何でもやるんですよ。
歌う事は寿[kotobuki]の活動を通じて喜びを取り戻したけれど、踊りの方はどこかまだ取り戻せてないというか「ワタシの踊る喜びはこんなもんじゃ〜ない」という不平不満の声を魂が叫んでおりました。
バリに半年いようと決めた理由は、去年のバリ滞在で経験した事をもっと拡大するためにも、もっと基本を身体で解った方がいいなと思ったからでしたが、バリで過ごすうちにそのもっともっとの奥に「踊る喜びを取り戻したい」という欲求がある事に気が付き、そこに自分の焦点を当てる事にしました。
当ててみたら沢山の怖れの感情、例えば怒られて萎縮した子供の自分の感情とか、やりたい〜と切望してやった時に失敗した時の事、失敗した時に言われた言葉やその言葉に傷ついた自分やら、いろんな感情が純粋な「踊りたい」という想いの周りに纏わりついているような状況になっていて、『自分の踊る喜びを踊る事=それはとても怖い事』になってました。
ひとつひとつ払いのけてやっとこさ自分のず〜〜〜っと叶えたかった夢の姿だけが見えて来たら、そこに邁進するぞとやっとシフトチェンジが出来、毎日、毎日、自分に『自分が何のためにバリに来たのか』を言い聞かせ、他のつまらない感情に振り回されないように気をつけていましたら、凄いです。
勝手に身体が思考が状況が「踊る喜び」を体験する事のみを選ぶのですよ。
私の全てが『この事のみを自分に経験させる』と決めた瞬間から、そのように全てが動くんですよね。
もちろん、先生から「くそ〜地獄に落ちやがれ!!」(弟子が師匠に言ったらいけない言葉ベスト3に入るよね)と言いたくなる様な言葉を言われたりして3日くらい落ち込んだりもしましたが、でも、「これって私が覚えておかなきゃいけない様な有益な言葉じゃないじゃん」と思えたらさっさと忘れ、また本来の目的達成レールに戻れるのです。

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