週刊「ナビィ、の部屋」第48号
(2004.04.30 日々のつぶやき)
でも、その声ははるか遠い沖縄を想う、『望郷の声』ではなく、ハワイイで生きるうちなーんちゅのゆるやかな、でも凛としたたたずまいがそのまま声になった様な優しくて強い歌声だった。
うちのその時の気持ちは上手く言葉に出来ない。
村田さんが歌い始めた時、胸がぐ〜〜〜っと熱くなって涙が出そうになった。
もちろん踊りもあって、やっぱり同じ様な印象を持った。

パーティー終了後、村田さんとお話をした。
「移民1世はね、楽しみが民謡しかなったみたいね。キビの仕事して、指の先はいつもぱっくり割れてたけど、三線片手に唄っていたよ」
そんな人達の歌声を聴いて村田さんは育った。
村田さんは沖縄民謡が大好きで、中学生の頃には、その頃ハワイイに何十件もあった民謡スナックに勉強がてら太鼓を叩いたり、囃子を唄いながら、毎日の様に入り浸っていたらしい。
「その頃、登川誠仁さんも来たよ、沢山の民謡唄者が沖縄からハワイイに来て稼いで遊んで帰って行ったよ。中学生の僕はその人達の唄をなまで聴いて、盗んで、しかもバイト代までもらっていたわけさ〜」
その頃の話しを目をキラキラさせて語る村田さん。
なんだか、こっちまでワクワクした。
「警察がくるわけさ、中学生が酒場でバイトするのは禁止されてるでしょ?だから見回りが来たら『サンラー(村田さんのあだ名)隠れろ!!』って師匠の唄者が僕をかくしてくれるわけ。
あの頃の僕は一週間で80ドルくらい稼いでいたよ。中学生で、だよ」
中学生でどっぷり民謡と夜の世界(?)に浸っていた村田さんはその後、民謡や方言を学びハワイイで民謡、古典の師範になる。
うちは名前を聞いた時から気になっていた事を尋ねた
「村田っていう名前は沖縄の名前ではないですよね」
村田さんは即座に答えた。
「僕はね、事情があって生まれてすぐに日系人のいまの両親、村田の家に養子に出されたの。でも、僕のお母さんはうちなーんちゅよ。
僕は40才近くなるまで、自分がうちなーんちゅって事を知らなかった。
ある出来事があってぼくは自分が村田の家の本当の子供ではない事やうちなーんちゅである事がわかったんだ。
その後、何年かかけてお母さんを探し当てた。僕がこんな風に沖縄の芸能に携わってると知って喜んでたよ。」

沖縄移民に対する差別が強かった日系社会の中で村田さんが沖縄の芸能に心ひかれる事を日系人の両親はどう思っていたのだろう?
「村田の両親はなんにも言わなかったし、とがめられた事もなかった。「やりなさい」と言って応援してくれた。僕はあの両親に育てられた事を誇りに思ってるし、本当に感謝しているよ」
縁だなぁ、、とつくづく思った。
もし、反対する親だったら、日本人だと思われていた村田さんを受け入れたハワイイの民謡の世界がなければ、今の村田さんはいないし、こうしてうちが出会える事もなったわけだし、、、、、『縁』とはほんとうに不思議なものだ。

ハワイイにいる事を忘れるほど、沖縄なまりの強い村田さん。
1世のおばぁとは強烈はうちなー口で会話してた。
日本人の家庭に育ったのに、なぜ????
「言葉は分からないから1世に習ったよ。習ったって言っても彼らだって普通に話してるだけだから教えられないさ、
だから、彼らが話してる言葉で解らない言葉をノートに書いて民謡の師匠に後から聞いたりしながら覚えたんだよ」
「沖縄の民謡は発音が大事。あの独特の発音、言葉が沖縄民謡の個性だからね。気を付けてるし、大事にしてる所だよ」
一緒にステージに立っていた双児の娘さんが、帰りたい、と言うので、うち達も便乗してホテルまで送ってもらう事になった。
時間が許せばもっともっと話しがしたかった。
人生の殆どを「日本人」だと思って過ごし、民謡や方言を学んで来た村田さんの話しは、ないちゃーのうちにとって、とっても勉強になった。
全く初対面のうちに、心を許して色んな話をしてくれた村田さんや奥さんに感謝だし、そこから学んだ事を、うちなりに活かしていかなきゃなぁ〜と思う。

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