Archive for 2010年09月

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帰国し、歌い踊りました。

本当に短かったバリの旅から戻り、今日は本来は雨天中止だった中野アシビナイトが、ブルーシートのテントを急ごしらえで作り、開催され歌って踊って来ました。

実行委員の皆様、参加者の皆様。
雨の中、お疲れさまでした。
有り難う。

中野の広場に関わり、亡くなった方々の遺影とすすきとお月見団子、そして雨音とラジカセから流れる小さな音のガムラン。
重装備のお面の踊りはやめて、『ルジャン・デウォ』という寺院の儀式で踊られる踊りを正装を来て、一人で踊りました。

「音が小さいので静かに、そしてなるべく近寄って観て下さい」と司会のMくんとKちゃんが言ってくれたお陰で、本当に雨音とガムランしか聞こえないほどの張りつめた静寂の中で踊らせてもらいました。


おととい、帰国直前の稽古の帰り、お寺に大きな月がぽっかり浮かんでいて、「明後日は中野で満月の下で踊れるんだな〜」とワクワクしていましたが、残念ながらの凄い雨。

しばらく踊ってなかった踊りなので振りも怪しかったし、集団で踊る踊りを一人ってのもどうかな〜と散々悩んだりもしたけれど、でも、踊っていて、「あぁ、この踊りで良かったんだな」と思いました。


雨でなかったら、この踊りはなかったので、自分で勝手に決めつけてるだけかもしれないけれど、偶然はなく、どんな状況になっても「ベストな選択を」と望んだ時、そして、それが出来ると信じた時、一番調和がとれる選択を無意識でも自身がしている様に成っている気がします。



今回の旅は、自分の中で確かめたいと思う事もあって強行スケジュールではあったけど、行ってみたんですけど、最後の最後に「あぁ、やっぱりそうか」と思う出来事があり、腑に落ちた旅でした。


歌う様に踊りたいし、踊りの様に歌いたい。
そして、その様である為に、その学びのために起きている出来事(起こしている?)は、どん欲に柔軟にしなやかに、受け入れて生きていたい。
全ては自身の糧となるために、そう信じて楽しむ事を忘れずに生きていたい。
そんな事を改めて強く思った旅でございました。


次のライブは、あ〜〜〜た。
年に一度のお楽しみ『オキナワナイト』じゃ〜ござんせんか。
今年は久しぶりに二人の編成で出ます。
お暇があってもなくても来てくだちゃい!!
宜しくね〜〜〜〜〜〜
ではまたね〜〜〜

   

有り難う〜♪

滋賀のハッピーフォレストプロジェクトライブ、祇園の新右ヱ門、ライブにお越し下さった皆様、スタッフの皆様。
向島の愛隣館の皆様、利用者さん、
昨日の阿佐ヶ谷 神明宮での奉納舞踊を観に来て下さった皆様、関係者の皆様。
有り難うございました〜〜〜〜
ライブも奉納も楽しゅうごさいました〜〜〜〜

大変な事は色々あっても、歌って踊って、これこそが自分の人生だなぁ〜としみじみ思います。
歌う事も踊る事も、あと10年かけてこうなっていたいなぁ〜という新しいビジョンがむくむく沸いて来た夏でした。
ってもう夏が終わってみたいに書いてますけど、相変わらず暑いっすなぁ〜


ところで、昔、バリでお寺の前で出会ったじぃさんと、ジャカルタから休暇でバリへ来ていた日本企業に勤める日本人と(インドネシア語がベラベラの方だったので通訳してもらっておりました)3人で話をしておりました。

バリ島では(大概どこでもそうだと思うが)お寺などの宗教施設に入る際、正装をしなくてはならないのですが、それを持っていない観光客はせめて、腰に帯を巻き、ノースリーブ、短パンなどの肌の露出を避ける様にと看板にもガイドブックにも書いてあります。

そのじぃさんは、西洋人などの自分の宗教のあると言われる観光客の殆どがプールに行く時の様な露出度の高い服で寺院に入り、拝んでいるバリ人をバシャバシャ写真に撮るが、無宗教だという日本人の方がルールを守り、礼節を重んじていると自分は感じるという様な事を言っておられました。

そこで、日本人2人はしばらくお寺に入る観光客をじぃさんと共に見ておりました。


う〜〜ん確かにそんな気がする。

そしてじぃさんは「大事な事は、どの神を信仰するかという事ではなく、どの様にキチンと神を愛するかという事ではないかと思う。
自身が本当に神を愛していれば、例え宗教が違っても、他人もまた自分と同じ様に神を愛している事がわかるだろう?
ルールーは違っても、それぞれの神をそれぞれが大切に思う姿勢に共感出来ない様なやつは本当に宗教があるとは言えん!!」とその後のうちの人生に大きな影響を及ぼす言葉を半分怒りながら吐きました。

それは愛国心だとか、同性愛だとか、『愛』全般、色んな事に当てはまる言葉だと思う。


アメリカでの常規を逸していると思う行為がニュースとなっています。

例え虫酸が走る程イスラム教が嫌いだったとしてもコーランを焼く事で、その人達自身の中にある何かが解消される事はないし、解消されないければ解消したいと思い、行動はエスカレートするのではないかと思う。
それに、世界中に存在するイスラム教徒がテロ行為を企てているのではない。
殆どの人達は、私たちと同じ様に日々、平穏に健康に生きる事を望んで暮らしているのだと思う。


普通に暮らしていく中で、人には何らかの苦しみや哀しみがあり、どんな時代にも生きづらさがあり、だからこそ、人は出来るだけ穏やかに日々を暮らしたいと願い、手を合わせて来たのではないかと思う。

それはバリ人でも日本人でもアメリカ人でも、アラスカの先住民でもパレスチナ人でも、高層マンションに暮らそうが洞窟に暮らそうが砂漠に生きようが、どこに暮らしても同じなんじゃないかと思う。



余談だけど、「コーラン」イスラム教の聖典は、アッラーがどう生きる事が人として正しいのかを説いた規範を大天使ガブリエルに読み聞かせてムハンマド(モハメッド)に伝えたものを聖典にしたものだと言われているらしい。

大天使ガブリエルは4大天使のひとりで、神の声を伝える者という意味がキリスト教、イスラム教の双方にあるらしいです。
ユダヤ教が親で、キリスト教、イスラム教は兄弟って事なんでしょうか?
イスラエル国内にある古いモスクには、ガブリエルの足跡と言われる跡が天井に残っているらしい。
そのモスクに通うムスリムは無意識でも意識的でも、天使ガブリエルにも頭を足れている事になりますよね。



また上記の話に戻るけれど、日本人は国が定めた宗教はないし、世界では「無宗教の人達」で通っているんだと思うが、大抵の人達には「有り難いものには、思わず手を合わせる」とかちょっと宗教とは関係ないけれど、刃物を人に手渡す時、刃を自身に向けるとか、飲食店から出る時『ごちそうさま』と言うとか、
その様な他者に対する心遣いの様なものが日常にあり、バリ島でのじぃさんが感じる様な感性も宗教的規範が元にあるのではなく、脈々と先祖から受け継がれた美意識の様なものだと感じます。

神への愛なんだか、ただのエゴなんだか判らなくなっている宗教観が対立している状況に、この様な感性を持つ日本人の役割はある様に思うし、橋渡しになれる可能性は大きい様に思います。
それは、簡単な事ではないし時間もかかる事ですけどね。


長々書きましたけど、次のライブはあさっての、高円寺『抱瓶』です。
燃えるなぁ〜〜〜〜〜〜

ではでは、またね〜〜〜〜〜〜


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本文とは全然関係ない、旦那くんの入院中の病院近くの光景。子供の頃の夏休みを思い出す光景だなぁ〜と思って思わず撮りました。
夏だなぁ〜〜〜〜〜